人生はリセマラできる?現実とリセマラに対する考え方

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「なんでこんな初期ステータスなんだ、リセマラしたい…」きみは人生でそう思ったことはあるじゃろうか。今日は人生において、リセマラは可能なのか、またリセマラに対する考え方について話をするとしよう。

リセマラとは

リセマラ」とは、リセットマラソンの略で、ゲームアプリ(ソシャゲなど)のインストールやアンインストールを繰り返すことじゃ。こういうゲームはたいがい、チュートリアルが終わった時点で課金しないと回せないガチャ(くじ引きのようなもの)を1回無料で回すことができるのだが、ここで望みのキャラクターやアイテムを引き当てるためにリセマラは行われる。

つまり人生に置き換えると、自分が生まれる瞬間や、自分の上司が決まる瞬間、自分の子供が生まれる瞬間など不可抗力でランダムに決定する要素をもう一度ランダムに決め直すことを意味する。

人生はリセマラできるのか

結論から言うと、人生はリセマラできない。

「なんでこんなふうに生まれたんだ…」「なんでこんな上司を引き当てたんだ…」そう思ったとき、きみは人生をリセマラしたいと考えるじゃろう。しかし、1回きりの人生では残念ながらリセマラはできない。

ところで、人生がリセマラできる状態は果たして望ましいものなのだろうか?ここで、人生リセマラできる場合を想定してみよう。

リセマラできると選択という不幸が待っている

人生リセマラすることができる場合、つまり時間をかけて選択をすることができる場合を考えよう。

チュートリアルを突破し、ガチャを回すタイミングになってリセットするまでには一定の時間が必要じゃの。そして、自分の目当てのものが出る回数分この時間を必要とするわけじゃ。例えば、「イケメンになりたい」「裕福な家庭に生まれたい」「絶対音感が欲しい」など、要素がたくさんあるわけじゃが、望む要素を引き当てない限りは一向に人生をスタートすることができない。同じ時点で産まれても、ある人はすぐに人生をスタートし、ある人は数十年先まで人生をスタートできないわけじゃ。

きみも日々の中で、「人生における選択」がどれほど重いもので、エネルギーを消費するか知っていることじゃろう。納得いくまで選択できる状態というのは、本当に幸せかという点でクエスチョンマークがつくじゃろうな。リセマラはできない前提で、この世の運営である神がある程度設定を決めてくれていると考えれば、人生リセマラできない仕様であることに嘆くことも無くなるかもしれんな。どうにもできないことを無駄に考えるでないの。

リセマラできると選択を間違えたという後悔が待っている

リセマラができるということは、その選択を自分の責任で決めなければならないということじゃ。

例えば、きみが産まれた時点で選んだ特殊能力がファッションデザイナーのスキルだったとしよう。しかし、これは今後数十年でAIにとって代わられる可能性が示唆されている。このような状況になった場合、きみは散々リセマラして選んだステータスをひどく後悔するじゃろう。時間もエネルギーもかけてその時はいい選択だと思っていたものが、間違っていたんじゃからな。

リセマラできないということは、選択しなくても勝手に決まるということじゃ。きみは人生、自分の責任で何もかも決める勇気を持っているじゃろうか。大学も偏差値が自分の身の丈にあっているからという理由だけでここに決めたとか、就職も世間体がいいから大企業とか、結婚も親がいいと言うからこの人と結婚したとか、そんな感じではないだろうか?もしそんなふうに、後悔も自分の責任であることを理解し自分で決断を下すことができないのなら、リセマラできない仕様のほうがきみにぴったりじゃと思うがの。リセマラできないということも、実は幸せなのかもしれんぞ。

リセマラは本来のゲームの楽しみ方じゃない

そもそも、リセマラはゲームをプレイする上で推奨されることじゃない。最近は運営側もそれを理解していて、リセマラできない仕様のゲームも増えてきているじゃろ?ゲームには成長要素というエキサイティングな仕様があるんじゃから、できないリセマラのことばかり考えていないで、いかにここからステータスを強化していくかを考えるのが、吉と言えるのではないかとわしは思うがの。ちなみに、わしは面倒だからリセマラしない派じゃ。

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